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イスラエル パレスチナ

イスラエル、パレスチナ問題を簡単に分かりやすく解説 イスラエルとは - コトバンク

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イスラエル、パレスチナ問題について、よくニュースなどでは耳にしますが、いったいなぜこんな事態になってしまったのでしょう。歴史の観点から当ホームページも少し詳しく説明していきますね。 大辞林 第三版の解説 ① 西アジア、地中海東岸にある共和国。南端部はアカバ湾に面する。シオニズム運動の結果1948年にユダヤ人が樹立。ダイヤモンド研磨工業が発達。主要言語はヘブライ語。宗教はユダヤ教。首都エルサレム(ただし国際的には未承認)。面積2万2千平方キロメートル。人口670万( 2005)。正称、イスラエル国。 → 中東戦争 ② 古代パレスチナに定着したセム系の遊牧民。ヘブライとも呼ばれた。旧約聖書によれば、ヤコブの別名およびヤコブを祖とする一二部族の総称。パレスチナからエジプトに移住したが、圧政に抗してモーセに従いエジプトを脱出し、カナンに定住。紀元前一一世紀中頃サウルによりイスラエル王国を建設。ダビデ・ソロモン両王のとき、強大な王国となって栄えたが、前一〇世紀初めに南北の王国に分裂。北のイスラエル王国は前722年アッシリアにより、南のユダ王国は前586年新バビロニアにより滅ぼされた。アケメネス朝ペルシャによりバビロンの捕囚を解かれて帰ったユダの人々は、エルサレムに神殿を再建したが、のち、ローマ帝国により滅ぼされた。以後、世界各地に離散し、流浪の民となった。 〔「以色列」とも当てた〕 → ユダヤ人 出典 三省堂大辞林 第三版について 情報 百科事典マイペディアの解説 ◎正式名称−イスラエル国Medinat Yisrael/State of Israel。◎面積−2万2072km2。◎人口−784万人(2011)。◎首都−エルサレムJerusalem(80万人,2011,東エルサレムを含む)。◎住民−ユダヤ人76%,アラブ人その他24%。◎宗教−ユダヤ人はユダヤ教(76.8%),アラブは大部分がイスラム(15.5%),キリスト教(1.7%),ドルーズ(1.6%)(2005年)。◎言語−ヘブライ語(公用語)が大部分,ほかにアラビア語,イディッシュ語など。◎通貨−ニュー・シュケルNew Shekel。◎元首−大統領,ルーベン・リヴリンReuven (Ruvi) Rivlin(1939年生れ,2014年7月就任,任期5年)。◎首相−ネタニヤフBenjamin Netanyahu(2009年3月就任,2013年3月再任,任期4年)。◎憲法−成文憲法はなく,帰還法,政府法など一連の基本法が実質的憲法となっている。◎国会−一院制(定員120,任期4年)。(2015)◎GDP−1995億ドル(2008)。◎1人当りGDP−2万8200ドル(2008)。◎農林・漁業就業者比率−2.4%(2003)。◎平均寿命−男79.9歳,女83.6歳(2013)。◎乳児死亡率−4.0‰(2005―2009)。◎識字率−96.9%(2003)。

3分で分かるイスラエル・パレスチナ問題 激化する空爆・地上戦・イスラム国 - NAVER... 直行便で聖地が身近に イスラエル・パレスチナへの旅|中東解体新書|NHK NEWS WEB

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イスラエルとパレスチナの人たちの争いは長い間続き、多くの人が犠牲になりましたが、1993年、 イスラエルが占領していた場所からイスラエル軍が引き揚げて、パレスチナの人たちが、自治=自分 たちで政治をやっていけるようにしようという約束をしまし ... * *西アジア,地中海岸の共和国。地形は変化に富み,肥沃な海岸平野,東部のヨルダン渓谷,死海,南部のネゲブ砂漠がある。地中海式気候で気温は最高38℃に達する。住民の8割はユダヤ人でユダヤ教徒。公用語はヘブライ語。工業化が進み,繊維・化学・機械・ダイヤモンド研磨工業があり,死海付近でカリ塩を産する。主要農作物は柑橘(かんきつ),穀物で,キブツのような独特の農業協同組織を有する。ヨルダン川分水開発計画が行われている。経済的には中東最高で,1人当り国民所得は西欧に準じる。元首は大統領で一院制の議会が選出,首相は国民の選挙で選出。 19世紀末ユダヤ人のシオニズム運動が始まり,パレスティナ問題が起こった。1948年第1次中東戦争によって独立。その後も領土をめぐりアラブ諸国との対立・抗争が絶えない。1979年キャンプ・デービッド合意に基づきエジプトと,1994年ヨルダンと,それぞれ平和条約を結んだ。パレスティナ解放機構(PLO)とは,1993年に相互承認して和解し,暫定自治原則宣言(オスロ合意)に署名。1994年にパレスティナ暫定自治先行協定に調印したものの,和解推進派のラビン首相が1995年に暗殺され,1996年には強硬派のリクード党首ネタニヤフが首相に選ばれ,パレスティナ和平の前途は一気に混沌とした。1999年5月の選挙でイスラエル労働党のバラクがネタニヤフに圧勝し,和平の進展が期待されたが,2001年2月の選挙で右派リクード党首シャロンが当選し,状況は再び悪化した。2003年1月の選挙でリクードが第1党に躍進し,シャロンは中道右派4党からなる連立政権(第2次シャロン内閣)を発足させた。2005年8月突如パレスティナ自治政府のガザ地区内のユダヤ人入植者の強制退去を開始したが,翌2006年1月シャロンは病気のため政治生命を絶たれた。2009年2月の総選挙で,ネタニヤフ率いるリクードが第1党は逃したものの躍進し,労働党などとの右派連立を実現,ネタニヤフが10年ぶりに首相に返り咲いた。ネタニヤフは,入植事業の継続政策を加速,入植凍結を和平交渉再開の条件とするパレスティナ自治政府との溝は拡がっている。対イラン制裁問題やパレスティナ自治政府の国連加盟問題でも強硬な姿勢をとり続けている。国内では,2011年8月,生活費高騰に抗議し政府に社会改革を求める大規模なデモが発生している。しかし,2012年2月の与党リクードの党首選でネタニヤフ氏が75%以上の票を得て大差で再選を果たした。2013年1月の総選挙でリクードは,同じく右派・極右のイスラエル・ペイティヌとともにリクード・ペイティヌとして統一名簿で臨み,大幅に議席は減らしたものの第1党を確保,3月右派・中道連立内閣を発足させ,ネタニヤフが3度目の首相となった。2015年3月の選挙でも,事前の予想では野党労働党などでつくる統一会派〈シオニスト・ユニオン〉の優勢が伝えられたが,リクードが第1党を確保,ネタニヤフが続投する。ネタニヤフは,米国をはじめ西欧諸国が核保有問題で協調姿勢を見せているイランとの交渉をすすめるなか,対イラン強硬路線を強く主張しており,パレスティナ問題についても一切譲歩をみせず,強硬姿勢を変える可能性は低い。→関連項目アシュケナジム|アッコ|パレスティナ自治政府|ヘブライ人|ヘルツル|マサダ|モサド|ユダヤ教 出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報 世界大百科事典 第2版の解説 民族名としてのイスラエルが初めて現れる聖書外資料は,エジプト王メルエンプタハの5年(前1230ころ)の戦勝記念碑である。これにより,前13世紀に,イスラエル人がカナン(のちのパレスティナ)にいたことが確かめられる。他方,旧約聖書によると,民族の起源は,それより4,5世紀前に,ヘブライ人アブラハムがメソポタミア地方からカナンへ移住して来た事件に求められる。遊牧民アブラハムは,のちにイスラエルの神になったヤハウェから,彼の子孫にカナンの地を与えると約束された(〈アブラハム契約〉)。

パレスチナ問題 - Wikipedia パレスチナ問題とは。イギリスが悪い?発端、経緯、現状をわかりやすく解説 | 教養も ホンシェルジュ

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イスラエル支配下のパレスチナ人地区では、住居の建設はイスラエルの許可が必要だが、イスラエルの市民団体「ピース・ナウ」によれば、申請の94%が却下される 。特にc地区では、2008年2月現在、パレスチナ人の住居は、自分の土地であっても過去10年間1軒 ... 出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 正式名称 イスラエル国。ヘブライ語で Medinat Yisra'el。アラビア語では Dawlat Isrā'īl。面積 2万1643km2(ガザ回廊地帯とヨルダン川西岸を除く)。人口 768万6000(2013推計。ヨルダン川西岸のイスラエル人を除く)。首都 エルサレムのイスラエル地区。西アジアの地中海に面した共和国。19世紀にヨーロッパで起こったシオニズム運動を背景として,各地のユダヤ人が旧パレスチナに移民として集まり,国際連合によるパレスチナ分割決議に基づき,1948年5月14日,2000年来の悲願をこめて独立宣言をしたユダヤ人国家。国土は冬季でも日中平均気温 15~18℃としのぎやすい地中海沿岸部,メロン山(1208m)を最高点とする北部と中部の丘陵地域,アフリカ大地溝帯の走る東部地域,夏季には気温 46℃にも上る南部のネゲブ砂漠の四つの地域からなる。北端部で年平均降水量 1120mm,南端部では 25mm。主要河川のヨルダン川がガリラヤ湖(海面下 209m)を経て死海(海面下 400m,塩分は通常海洋の 6倍)に注ぐ。ベールシェバより北は柑橘類,ユーカリ,針葉樹などの植林地と牧草地,あるいは荒地で,中小の動物は多様。行政区はエルサレム,ハイファ,テルアビブヤフォのほか,北部,中央部,南部の 6地区,12県。一院制の議会民主政治だが成文憲法はなく,中央集権的傾向が強く,女子も含めて国民皆兵(アラブ人は免除)。人口の約 75%がユダヤ人,約 20%がアラブ人。人口分散政策がとられているが,テルアビブヤフォやハイファなどの都市に集中化が続いている。ユダヤ人の約半数は外国生まれで,1989年以後,ソビエト連邦からの移民が増大した。宗教事情は複雑で,ユダヤ教は西ヨーロッパ系のアシュケナジ派とアジア系のセファルディ派に分かれ,イスラム教はスンニー派が主。キリスト教は各派ともその代表機関を置いている。多様な文化圏からの移民も,再成したヘブライ語のもとに文化的共通性を確立しつつある。公用語はヘブライ語とアラビア語。経済面ではアメリカ合衆国および在外ユダヤ人の援助,ドイツの巨額の賠償金(→ホロコースト)などによる資本の流入と,高度な技術や頭脳をもつ多数の移民の流入により急速に発展,1958~70年には平均年 15%の成長率を保った。人口の約 5%が農業に従事し,自主自給集団農業キブツや自営農家協同組合モシャブを通じて,機械化による集約農業を行ない,水資源の不足に悩みながらも柑橘類の生産に力を入れている。鉱物資源の量は少ないが,カリウム,臭素,マグネシウム,銅,リン酸塩などの一部を輸出する。ダイヤモンド加工(研磨ダイヤモンドは輸出総額の約 4分の1),薬品工業,機械工業,特に航空機工業が発達し,巡礼を含む観光産業も盛ん。しかし 1980年代後半からは経済成長率も 5%を切り,インフレーションと失業者増大に苦しんでいる。また,建国以来続くパレスチナ問題も和解と対立を繰り返し,不安定な状況にある(→パレスチナ暫定自治協定)。(→イスラエル史) ヘブライ語で「神が支配する」あるいは「神と争う」「神が勝つ」の意。旧約聖書によればイサクの次子ヤコブが,メソポタミアからの帰路,ヤボクの渡しで与えられた名であり,その 12人の子より 12部族から成るイスラエル民族が形成された (創世記 32・28) 。このイスラエル 12支族中 10部族が北王国を形成するが,アッシリアに滅ぼされるまでの北王国とその民を南王国ユダと区別してイスラエルという。北王国滅亡後は南王国ユダの同義語,さらにバビロン捕囚より帰還してからはその民をユダヤ人といい,それ以後はヤハウェに選ばれた民としての自覚を表わし,国家としての存立を失ったのちもイスラエルは存続し,1948年イスラエル共和国が建設されるにいたった。

イスラエル・パレスチナ問題(紛争)|原因や両者の関係などを掘り下... イスラエルパレスチナ問題。紛争の起源は?簡単に解説。 | 真実を追求するブログ

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イスラエル・パレスチナ問題(紛争)について見ていきましょう。未だに解決が難しいこの問題の原因や、両者の関係などを詳しく紹介していきます。イスラエルとパレスチナ間の紛争(イスラエル・パレスチナ問題)はもう何十年も続いており、解決策に関して非常 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説 西南アジアのパレスチナにある共和国。正式名称はイスラエル国Medinat Israel(State of Israel)という。地球上でユダヤ人が多数派の唯一の国で、地中海の東岸に位置し、北はレバノン、東はシリア、ヨルダン、南はエジプトのアラブ諸国によって取り囲まれている。面積は2万2072平方キロメートル(イスラエルが併合を宣言した東エルサレム、ゴラン高原を含む)で四国とほぼ同じ。人口は737万4000(2008)。

イスラエル、西岸併合で米と協議継続 パレスチナは直接協議も検討か -...

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イスラエルのネタニヤフ首相は6月30日、米国のフリードマン駐イスラエル大使やベルコウィッツ中東特使と会談し、パレスチナが将来の国家の ... 1967年の第三次中東戦争の際に、イスラエルは東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区をヨルダンから奪い、さらにゴラン高原をシリアから、ガザ地区とシナイ半島をエジプトから奪った。その後エジプトとの平和条約に従って1982年にシナイ半島の返還を完了した。しかし、聖地として歴史的に重要な旧市街を含む東エルサレムと、シリアから奪ったゴラン高原の併合を宣言している。国際社会はこれを認めていない。 イスラエルという名称は、元来イスラエルの部族同盟の名称であったものが、のちにヤーウェ信仰に立脚した民族集団すなわちイスラエル民族の名称となったもので、「神(エール)が支配する」という意味をもち、神政政治の理念を示している。「神が勝つ」「神と競う」「神に固執する」などの意味をもつとする解釈もある。その後、イスラエル(人)という名は全民族に対する国民的な名称として用いられるようになった。[高橋和夫]イスラエルの支配する地域の地形は、北はレバノンから南はネゲブ砂漠にまで連なる中央丘陵地帯、ヨルダン川西岸の平野、丘陵地帯と地中海に挟まれた海岸平野、南部のネゲブ砂漠の四つに区分できる。 中央丘陵地帯の北部ガリラヤ地方は地中海性の気候帯に属し、肥沃(ひよく)な土壌に恵まれ、オリーブとタバコの栽培で知られる。アラブ系住民はこの地域に集中しており、イエス・キリストが育ったといわれるナザレがその中心都市である。ヨルダン川流域から北西に走り地中海沿岸のハイファ北方に至るエメク峡谷が、この中央丘陵地帯を南北に分断している。この地方は高温多湿の気候のため、かつてはマラリアの危険さえある湿地帯であったが、現在はイスラエルの穀倉地帯になっている。エメク峡谷南部の丘陵地帯は古代にはユダヤ、イスラエル両王国の中心地であった。重要都市はエルサレム、ラムラーなどである。 ヨルダン川の西岸に沿って平野部がある。シリア・レバノン国境のヘルモン山に水源を発するヨルダン川はイスラエル領内を117キロメートル流れ、その後、国境を越え、ヨルダン川西岸地区とヨルダンとを隔てて、死海へと流れ込む。このため水利権をめぐりシリア、レバノン、ヨルダン、パレスチナ自治政府とイスラエルとの主張が対立している。この平野の北部は豊かな農業地帯で、イスラエルにとって重要な水源であるティベリアス湖(ガリラヤ湖)がある。同湖の水面は海面下約212メートルにある。ヨルダン川に沿って南部にいくにしたがって土地は不毛になり、南端には海面下400メートルという地球上でもっとも低い塩湖、死海がある。この死海から塩、カリウム、臭素などの資源を回収する事業が行われている。 地中海岸の平野部はイスラエルの心臓部である。主要港のハイファ、各国が大使館を置くテル・アビブを含み、工業地域であると同時に果樹栽培の中心地でもある。 南部には国土の半分以上を占めるネゲブ砂漠が広がる。年降水量は北端で200ミリメートル、南端のエイラトではわずか25ミリメートルにすぎない。イスラエル政府は北部から水を引き、ネゲブ砂漠の開発を活発に進めてきた。中心都市はベールシェバ、ディモナなどである。ディモナの郊外には原子炉を含む核関連施設がある。港湾都市エイラトは、イスラエルにとってはアカバ湾への唯一の出口であり、軍事的、経済的また心理的にも重要な地点である。イラン革命以前は、イラン原油をエイラト港から輸入しパイプラインで地中海のハイファ港に送り、ルーマニアなどの東ヨーロッパ諸国へ再輸出していた。また第三次中東戦争の直接の原因の一つとなったのは、エジプトがアカバ湾から紅海への出入口であるテラン海峡の封鎖を発表したことであった。[高橋和夫]ユダヤ人の祖先イスラエル人(ヘブライ人)が、カナーンの地と称されていたパレスチナに定住したのは紀元前20世紀ごろとみなされており、前11世紀にはイスラエル王国を建設している。前10世紀前半にはこれが分かれてイスラエル王国とユダ王国とになり、この2国がアッシリア、新バビロニアによってそれぞれ滅ぼされてのち、前1世紀にはローマ帝国の保護下にユダヤ王国が樹立された。しかしローマの帝権に抵抗したためローマの徹底した弾圧にあった。そして紀元後135年に、ローマはついにユダヤ人がエルサレムに入ることを禁じた。ここにユダヤ人の世界流浪の歴史が始まったとされる。とくにヨーロッパのユダヤ人は、繰り返し起こる迫害に耐えなければならなかった。こうした苦難の歴史を底流として19世紀後半に入ると、キリスト教社会に同化できなかった、また同化を許されなかったユダヤ人の間に自らの国を建設しようとする運動が沸き起こってきた。この背景には、19世紀のヨーロッパにおける、各民族が固有の国家を希求する民族主義の高揚があった。ユダヤ人が最終的に建国のために求めた土地は、当時オスマン帝国領のパレスチナであった。そしてその地のエルサレムの別名のシオンの山が、彼らの国家建設のあこがれの象徴であった。それゆえにこの運動は、シオンの山の地に戻る運動「シオニズム」とよばれ、その推進者たちは「シオニスト」とよばれた。ヨーロッパでユダヤ人迫害の潮(うしお)の高まるごとに、シオニストがパレスチナに流入した。しかしそこは無人の地ではなかった。パレスチナ人(主としてイスラム教徒、キリスト教徒などのアラブ人)の居住地であり、彼らの反発は必至であった。 第一次世界大戦が始まると、イギリスは、ドイツの同盟国オスマン帝国内のアラブ人の反乱を支援し、戦後のアラブ人国家の独立を約束した。アラブ側は、この国家のなかにパレスチナも含まれると受け取っていた。一方イギリスはシオニストたちの戦争協力をも求め、見返りとして1917年にバルフォア宣言を発して、パレスチナにおけるユダヤ人の「民族的郷土」(ナショナル・ホーム)の樹立を支持した。だが戦争が終結すると委任統治領という形でパレスチナをイギリスの支配下に置いた。 1930年代に入りナチスがヨーロッパで勢力を伸ばすと、パレスチナへのユダヤ人移民は増加した。とくにドイツ系ユダヤ人は資本と技術をパレスチナにもたらし、この地でのユダヤ人社会は大きく成長した。たとえばイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団の前身のパレスチナ交響楽団が創設されたのもこの時期であった。ユダヤ人口の増加と波長をあわせるようにパレスチナ人の反発も高まり、双方の軋轢(あつれき)は武力衝突にまで発展した。第二次世界大戦中のナチスによるユダヤ人大虐殺(ホロコースト)がシオニストたちの活動に拍車をかけた。またヨーロッパや北アメリカではユダヤ人に対する同情が高まった。戦争が終結するとパレスチナで武力衝突が激化し、イギリス当局へのテロも頻発した。この混乱のなかで、イギリスはパレスチナの将来を国連にゆだねると発表し、体よく難問の解決を国際社会に押し付けてしまった。国連総会はパレスチナをアラブ地域とユダヤ地域、および国際管理地域とに分割する決議案を可決した。シオニスト側はこれを受け入れて、念願のユダヤ人国家イスラエルの成立を宣言した(1948)。アラブ側は分割案を拒否、周辺のアラブ諸国軍がパレスチナに進入し、第一次中東戦争(1948~1949)が始まった。イスラエル軍はアラブ各国軍を退け、分割案で与えられた以上の地域を確保した。その過程で多数のパレスチナ人がイスラエルの支配地域から追われた。逆にアラブ諸国では反ユダヤ感情が激化し、多くのユダヤ人がイスラエルに移住した。イスラエル政府は、すべてのユダヤ人にイスラエルへの移民とその市民権獲得の権利を付与する「帰還法」を制定し、アラブ諸国をはじめ世界各地からのユダヤ人を受け入れた。これによりイスラエルのユダヤ人口は急増した。こうして土地や財産を奪われ、難民となったパレスチナ人の権利の剥奪(はくだつ)のうえにシオニスト国家は成立し発展した。 一方アラブ世界はパレスチナ人の権利の回復を要求し、以後第二次中東戦争(1956)、第三次中東戦争(1967)、第四次中東戦争(1973)と大きなものだけでも3回の武力衝突が双方の間で起こった。とくに1967年の戦争ではイスラエルがわずか6日間で圧勝し、前述のように支配地域を拡大した。しかし1973年の戦争で、イスラエルはシリア、エジプト両軍の奇襲を受け大きな損害を被った。しかもアラブ産油諸国は、アメリカの対イスラエル緊急軍事援助に反発して、アメリカとオランダに対する石油輸出の禁止、非友好国に対する輸出量の削減などの一連の措置を発表した。これは「アラブ石油禁輸」として知られ、それまでにアラブ原油への依存度を高めていた西側工業諸国を震撼(しんかん)させるという、いわゆる「オイル・ショック」を世にもたらした。だが結局イスラエルの反撃が功を奏し、この戦争も戦術的にはイスラエルの勝利に帰した。しかしながらアラブ側は、緒戦における成功によってイスラエル軍不敗の神話を崩し、さらに石油禁輸によって国際的影響力を高めた。戦闘が収まると、アメリカのニクソン政権の国務長官キッシンジャーによって「ステップ・バイ・ステップ」方式による和平への努力が試みられた。これは小さな妥協点を積み重ねて、最終的解決に至ろうとするものであった。そしてシナイ半島とゴラン高原でのアラブ、イスラエル双方の兵力の引き離しが、キッシンジャーの「往復外交」とよばれる精力的な努力によって達成された。キッシンジャー外交の後を継いだのは、1977年に登場したカーター政権の包括的和平案であった。これは、関係諸国および団体をジュネーブに招集し、一挙に平和への道を開こうとするものであった。しかし、イスラエルで強硬派のベギン内閣が誕生したこともあって交渉は難航した。この和平外交の停滞のなかで、1977年エジプト大統領サダトがエルサレムを訪問して新しい局面を開き、翌1978年にはイスラエル、エジプト、アメリカの3国首脳による会談が実現し、合意に達した。これは開催地であるアメリカ大統領公用別邸の名にちなみキャンプ・デービッド合意とよばれたが、この合意は二つの部分からなっている。一つはイスラエル・エジプト間の平和条約、大使の交換、シナイ半島のエジプトへの返還など、そしてもう一つは、パレスチナの自治確立のための交渉を規定している。この合意によりイスラエルは初めてアラブ国家との関係正常化に成功した。この間、サダト大統領の暗殺事件(1981)が起きたがその障害を乗り越えて、1982年4月には合意どおりにシナイ半島のエジプトへの全面返還を完了した。キャンプ・デービッドの合意によってエジプトからの軍事的圧力が軽減された。イスラエルは、この機会をとらえて1982年6月にレバノンに侵攻した。南部レバノンを席巻したイスラエル軍はベイルートを包囲した。この作戦の目的はレバノンからパレスチナ解放機構(PLO)を一掃し、イスラエル北部の安全を確保するとともにパレスチナ人の民族運動に打撃を与え、さらにレバノンに親イスラエル政権を樹立することであった。アメリカの仲介でベイルートからPLOが退去した。そのあとにイスラエルと同盟関係にあったレバノンのキリスト教勢力が、ベイルート郊外のパレスチナ人の難民キャンプのサブラとシャティラで虐殺を行った。その結果、イスラエル政府は内外世論の激しい非難を受けた。PLOの撤退後もイスラエル軍は南部レバノンの占領を続けたが、イスラム教シーア派住民の激しい反発を受けた。シーア派ゲリラの死をいとわぬ攻撃によって多くの兵士を失い、イスラエル軍は1985年にレバノンの大部分から撤退した。しかしレバノンの最南端部分だけは「安全保障地帯」として占領を続けた。イスラエル軍と、イスラエルが傭兵(ようへい)として組織した「南レバノン軍」は、シーア派の組織ヒズボッラー(ヒズボラ)のゲリラと激闘を続けたが、その犠牲の多さから撤退を求める世論が国内に高まった。1987年末ガザ地区とヨルダン川西岸地区でインティファーダ(大衆蜂起(ほうき))とよばれる住民の大規模な抵抗運動が自然発生的に起こった。やがてPLOとハマス(イスラム抵抗運動)がこの運動を組織化するようになった。抵抗の激しさと粘り強さは、占領の終結を求める世論をイスラエルの内外に喚起した。 1990年8月のイラクのクウェート侵攻で始まった湾岸危機は、1991年1月には多国籍軍の攻撃によって湾岸戦争へと転化した。イラクは、ソ連製のスカッドを改良したミサイルでイスラエルを攻撃した。イスラエルは報復に傾いたが、アメリカの説得によって参戦を思いとどまった。同年10月、アメリカが主導してマドリードで中東和平国際会議が開催された。しかしイスラエル政府には和平の達成の前提とされていた領土面での譲歩の用意はなく、会議は進展しなかった。 その翌年の1992年6月総選挙でイツハーク・ラビンの率いる労働党が勝利を収めた。ラビンは1967年の第三次中東戦争当時の参謀総長で、イスラエルを歴史的な勝利に導いた英雄である。1993年イスラエルとPLOはノルウェーの仲介で秘密の交渉を開始し、同年8月にノルウェーの首都オスロで合意に達した。翌9月にはワシントンのホワイトハウスでアメリカ大統領クリントンらが見守るなかPLO議長アラファトとイスラエル首相ラビンが合意文書に署名し、歴史的な握手を交わした。文書は、PLOとイスラエルの相互承認、ガザ地区とヨルダン川西岸の都市エリコでのパレスチナ人による自治の開始、占領地の最終的地位についての交渉による確定などを規定した。このパレスチナ暫定自治合意(オスロ合意)に基づき、1994年にはガザ地区とエリコでパレスチナ人の自治が実際に始まった。1995年和平交渉を推進してきた首相ラビンが暗殺された。犯人は占領地からの撤退に反対するユダヤ人であった。ラビンの後を継いだシモン・ペレスは、和平路線を継承し、イスラエル軍をエルサレムとヘブロンを除くヨルダン川西岸地区の主要都市の大部分から撤退させた。そして1996年1月にはパレスチナ評議会選挙が実施された。しかし同年6月のイスラエル初の首相選挙では接戦の末、右派政党リクードのベンヤミン・ネタニヤフが首相に選ばれた。ネタニヤフは頻発していたテロを抑えるための治安確保を前面に出す政策を進めた。1997年1月にはPLO議長アラファトとの合意で、ヨルダン川西岸のヘブロンから80%のイスラエル軍を撤退させたものの、同年3月には東エルサレムの南端にユダヤ人入植地を建設するなどパレスチナ側の激しい反発を招き、中東和平は停滞した。また、イスラエルの特務機関であるモサドMossadの工作員によるヨルダンでのハマス幹部暗殺未遂事件(1997)、スイスでの盗聴発覚(1998)など、国際的に非難を浴びる事件が相次いだ。1998年10月には停滞した中東和平を前進させるためのワイ合意が、パレスチナ自治政府のアラファトとの間に締結された。ワイ合意は、イスラエル軍がヨルダン川西岸地区の13%から新たに撤退するなど、パレスチナ自治政府の自治権をより拡大するという内容となっていた。しかし、同年11月に2%が撤退した後は、イスラエルで首相公選と国会議員の総選挙が繰り上げられる法案が可決したため、事実上撤退は凍結された。対するパレスチナ側では、1998年12月、アメリカ大統領クリントン立ち会いのもとに、パレスチナ民族評議会(PNC)が、パレスチナ民族憲章のなかのイスラエル破壊条項を正式に廃棄することを決定した。1999年5月に行われた選挙では、中東和平推進派の最大野党であった労働党のエフド・バラクEhud Barak(1942― )が、ネタニヤフを破って当選し、同年7月首相兼国防相に就任した。バラクは停滞していた和平交渉を再開し、新たに、イスラエル・パレスチナ合意を締結するとともに、1999年11月には「最終地位交渉」に入った。2000年7月には、クリントンがバラクとアラファトをキャンプ・デービッドに招いて首脳会談が開かれたが、物別れに終わる。同年9月、右派のリクード党首アリエル・シャロンが、エルサレム旧市街の聖地「神殿の丘」訪問を強行したことをきっかけに、イスラエル・パレスチナ間の衝突が激化した。翌2001年2月の首相公選では、対パレスチナ強硬派であるシャロンがバラクを破って当選し首相に就任、労働党などと連立政権を樹立する。2002年6月イスラエルは、パレスチナ過激派の攻撃からの防衛を理由に、ヨルダン川西岸地区とイスラエル領の間に分離フェンスを設置、パレスチナ側はその一方的な設置を非難した。同年10月、労働党が連立内閣から離脱したため与党は過半数を割り、シャロンは極右との連立を図るが失敗に終わり、議会を解散。翌2003年1月の総選挙で、リクード党が勝利し、党首シャロンがふたたび首相となった。同年4月には、アメリカ、EU(ヨーロッパ連合)、ロシア、国連によって策定された新和平案「ロードマップ」が提示され、イスラエルとパレスチナの両者に受け入れられたものの、その後もテロと報復攻撃が繰り返された。パレスチナ側では、2004年のアラファトの死去に伴い、アッバスが指導者となった。2005年1月、イスラエルではリクード、労働党、宗教政党(UTJ)からなる新たな連立政権が発足し、同年2月にシャロンはエジプトのシャルムエルシェイクでアッバスと会談、両首脳はロードマップによる和平プロセスへの取り組みを確認し、同年9月イスラエル軍はガザ地区からの撤退を完了した。2005年11月に労働党が連立政権を離脱すると、シャロンはリクードを離党し中道新党「カディマ」を結成した。しかし、2006年1月にシャロンが脳卒中で倒れ緊急入院し事実上政界から引退すると、オルメルト首相代理が職務を代行する。同年3月の総選挙ではカディマが第一党となり、同年5月オルメルトが正式に首相に就任した。一方パレスチナでは、2006年1月に行われたパレスチナ評議会選挙にイスラム原理主義組織ハマスが初めて参加、それまで主流派であったファタハを上回る支持を得て、定数132議席のうち74議席を獲得し第一党となった。2006年7月12日レバノンとイスラエルの国境地帯で、イスラム教シーア派民兵組織ヒズボッラーがイスラエル兵2名を拉致(らち)したことに対しイスラエル軍がレバノン南部に侵攻を開始した。イスラエル軍の空爆により民間人の死傷者が多数出るなどし、同軍は国際社会の非難を浴びた。その後、国連安保理決議を受け、同年8月14日に停戦が発効、10月1日にはレバノン南部に駐留していたイスラエル軍が撤退し国連レバノン暫定軍(UNIFIL)に支配地域を引き渡したが、イスラエルはヒズボッラーの武装解除をすることはできなかった。一方パレスチナ自治区では2007年6月にハマスがガザを制圧し、以後イスラエルとハマスの間で武力衝突が続いた。同年11月のアナポリス中東和平国際会議で和平交渉再開が合意されたが、和平プロセスは進展しなかった。2008年6月に成立したイスラエルとハマスの6か月の休戦も期限切れを迎えて延長合意に至らず、両者の武力攻撃は激しさを増した。2009年1月18日に暫定的停戦が合意されたが、永続的な停戦のめどはたっていない。政体は民主共和制で成文憲法はない。クネセトとよばれる定数120の議会が国の最高機関であり、議員は18歳以上の国民の投票によって選出される。投票は個人にではなく、政党に対してなされ、得票率に比例して議席を分配する全国一区の完全比例代表制である。この制度下では、死票がほとんど存在しないことも理由となって政党が群立している。「ユダヤ人が2人いれば、政党が三つできる」と誇張を込めて語られるほどである。かつて単独でクネセトの過半数を制した政党はなく、連立内閣が政権を担当するのが常である。 そのため小政党の協力が不可欠となる。こうした状況を利用して少数の議席しかもたない宗教政党が、宗教教育機関への補助金などの条件と引換えに連立内閣に参加してきた。 1996年の選挙から制度が変更され、首相の直接公選が導入され、有権者は首相と議員とを別々に選ぶこととなった。結果は前述のようにリクードの党首ネタニヤフが首相に選ばれ、リクードは第一党の労働党に2議席及ばなかったものの、シャスをはじめとする宗教政党やその他の右翼政党との連立で、ネタニヤフ政権が発足した。しかし、1998年1月には予算分配をめぐって外相レビが、続いて1999年1月には治安維持を最優先に掲げるネタニヤフの下で唯一和平推進派として知られていた国防相モルデハイが離反したことで、政権は大きく揺れた。 1999年5月に繰り上げて行われた首相公選、国会議員の総選挙では、中東和平推進派の労働党党首であるバラクが首相に当選し、「一つのイスラエル」(労働党などの3党連合)を中核とした新しい政権が発足した。その後、2001年2月の首相公選で、リクード党首のシャロンがバラクを破って首相に当選し、シャロン政権(連立内閣)が発足する。パレスチナとの対話路線を掲げた穏健派のバラクに対し、シャロンは対パレスチナ強硬政策を展開した。なお、首相公選の制度は2001年3月に廃止された。 2003年1月の総選挙ではシャロン率いるリクード党が勝利、シャロンが首相に再任された。当初は中道右派4党による連立政権が樹立されたが、3党が連立を離脱したため、2005年1月にはリクード、労働党、宗教政党による新たな連立政権が発足した。しかし同年11月に労働党が連立政権を離脱。シャロンはガザ撤退をめぐるリクード内の路線対立から同党を離党し、中道政党カディマの結成を表明した。これに伴い議会を解散し総選挙を前倒し実施することとなったが、2006年1月シャロンが脳卒中で重体に陥ったため、オルメルトがカディマの後継指導者となる。同年3月に実施された総選挙で同党が第一党になり、5月オルメルトが首相に就任、年金党、労働党などとの連立政権を樹立した。2008年9月オルメルトは辞意を表明する。2009年2月の総選挙を経て、同年3月にふたたびネタニヤフが首相となり政権を担うことになった。[高橋和夫]シオニスト国家の生存権を否定するアラブ諸国との対立を背景とし、イスラエルはその生存と国際的承認を最大の外交目標としてきた。建国直後に北アメリカ・ヨーロッパ諸国と外交関係を樹立し、1960年代には新しく独立したアジア・アフリカ諸国の多くと外交関係を結んだ。これにはイスラエルの与えた経済・技術援助が大きな役割を果たした。また1950年代末に西ドイツからの援助を受け入れ、1960年代に入って正式に外交関係を結んだのも注目される。しかし1967年の戦争のあと、ルーマニアを除く東ヨーロッパ諸国がイスラエルとの外交を断絶した。また1970年代に入るとリビアなどアラブ産油国のブラック・アフリカ諸国への経済援助が急増し、イスラエルのそれをはるかに上回るようになった。それが主たる原因となって、それらの国々は次々と対イスラエル断交に踏み切った。アラブ諸国は、こうしたブラック・アフリカ、社会主義諸国と共同歩調をとり、国連において続々と反イスラエル決議案を成立させてきた。しかも、イスラエルと密接な軍事・経済関係にあり、最大の石油供給国であったイランで1979年に王制が崩壊すると、新政権はイスラエルとの断交を決定した。こうした厳しい国際環境下のイスラエルにとって最大の友好国はアメリカである。 アメリカは1998年までに、有償、無償を含め、総額800億ドルの援助をイスラエルに与えているのをはじめ、国連安保理においてもイスラエルに不利な決議案に拒否権を行使するなど、陰に日向(ひなた)にユダヤ人国家を支援してきた。こうしたアメリカのイスラエル支援の背景には在米約650万人のユダヤ系市民の政治力がある。 また冷戦が終結すると東ヨーロッパ諸国は続々とイスラエルとの国交を回復した。アフリカ諸国との復交も進んだ。[高橋和夫]人口において圧倒的優位にたつアラブ諸国に対抗するため、強力な軍事力の維持に最大限の努力を傾けている。イスラエル軍は、約6万人の職業軍人、約11万7000人の兵役期間中の兵士、そして約40万8000人の予備役の三つから編成されている。国民皆兵制を敷いており、18歳になると男子には3年、女子には19~24か月の兵役が課されている。しかしアラブ系市民は、ドルーズ教徒だけが招集を受ける。またユダヤ神学校の学生も兵役が免除されている。兵役期間終了後は予備役に編入され、男子は40歳(将校は45歳)まで、女子は38歳か結婚まで毎年1か月程度の訓練を受ける。正規軍は陸軍13万3000人である。ほかに海軍1万人、空軍3万4000人、陸海空あわせて17万7000人である(2006)。予備役を招集すれば、短期間のうちに約59万人の動員が可能である。人口の少なさからして大兵力の長期間にわたる動員は、あまりにも負担が重いため、イスラエルの戦略は短期決戦である。またアラブ側との兵力の差を、組織力と兵士の資質、そして兵器で補っている。兵器は主としてアメリカ製である。イスラエル軍は装備、訓練、士気、実戦経験のいずれをとってみても中東随一である。またモサドが、アラブ諸国をはじめ世界各地で諜報(ちょうほう)活動にあたっている。さらに核兵器を保有している可能性も疑われている。[高橋和夫]パレスチナは古代より豊かな土地として知られていた。シオニストたちは高度な技術を活用して、この地の農業をいっそう発展させた。柑橘(かんきつ)類などがヨーロッパなどに輸出されている。 工業もまた目覚ましい発展をみせている。ダイヤモンド研摩産業は有名で、同産業の伝統的中心地オランダ、ベルギーを上回る規模を誇っている。また、とくに注目されているものに兵器産業がある。軍事上の理由から武器の国産化が推進され、兵器開発費用の調達のためその輸出が奨励されている。さらに、1980年代後半以降はコンピュータのソフトウェアなどのハイテク部門の成長が著しい。 こうした産業の発展と、海外からの援助を反映し、イスラエルの国内総生産(GDP)は1618億ドル(2007)、1人当り国内総生産2万1900ドル(2007)に達している。貿易額(2006)は輸出465億5000万ドル、輸入477億5000万ドルで、輸出品目はダイヤモンド、機械類、化学製品、農産品など、輸入品目は自動車、機械類、光学・医療機器、化学製品などとなっている。おもな輸出相手国はアメリカ、EU諸国で輸出の約65%を占める。おもな輸入相手国はEU諸国、アメリカ、中国となっている。[高橋和夫]建国時にはヨーロッパ系ユダヤ人(アシュケナジム)が多数派であった。のちにアジア・アフリカの、とくに中東のユダヤ人(セファルディム)が流入した。しかしイスラエルの上層階級の大半はアシュケナジムが占めており、セファルディムの間には不満がある。 1990年代に入るとイスラエルに新たな移民の波がやってきた。ソ連のユダヤ人たちである。ソ連の消滅後も人の流れは続き、1994年までに60万の人々がイスラエルに移住した。 イスラエル社会での変化の一つは、ユダヤ教の伝統の墨守を求める宗教勢力がその影響力を伸ばしていることである。たとえばユダヤ教の安息日にエルサレムのある地区を通行禁止にしようとして、世俗的なユダヤ人から反発を受けている。またイスラエルのこうした変化に、世俗的な大多数のアメリカのユダヤ人たちも居心地の悪いものを覚え始めている。 人口の2割近くは、イスラエル成立時に故郷を離れずにそのままイスラエルの市民となったパレスチナ人とその子孫である。 公用語はヘブライ語とアラビア語である。また、英語も広く通用する。義務教育は5~15歳の合計11年間、大学はエルサレムのヘブライ大学、ハイファの工科大学など8校がある。また、ガザ地区とヨルダン川西岸地区にはパレスチナ人の大学がある。宗教はユダヤ教が主流であるが、アラブ人はイスラム教徒、キリスト教徒、ドルーズ教徒である。また地中海岸のハイファにはバハーイ教団の本部がある。[高橋和夫]1973年の石油危機以降は、アラブ産油国への配慮から日本はかならずしも関係の強化に積極的ではなかった。しかし1980年代末から日本は対イスラエル政策を変更して関係の強化に動いている。日本は自動車、機械、電気機器などを輸出しており、逆にイスラエルは光学・医療機器や宝石・貴金属などを日本に輸出しており、ハイテク製品の市場として日本に期待している。対日輸出額は8億1000万ドル、輸入額は12億9000万ドル(2006)となっている。また中東和平支援のために日本はパレスチナ自治政府に多額の援助を提供している。[高橋和夫]『D・グロスマン著、千本健一郎訳『ユダヤ国家のパレスチナ人』(1997・晶文社) ▽松山健二著『武力紛争法とイスラエル・パレスチナ紛争』(2008・大学教育出版) ▽マーティン・ギルバート著、千本健一郎訳『イスラエル全史』上下(2008、2009・朝日新聞出版) ▽高橋和夫著『アラブとイスラエル――パレスチナ問題の構図』(講談社現代新書) ▽立山良司著『イスラエルとパレスチナ――和平への接点をさぐる』(中公新書) ▽栗谷川福子著『イスラエル――ありのままの姿』(岩波現代文庫) ▽臼杵陽著『イスラエル』(岩波新書)』 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例 精選版 日本国語大辞典の解説 (Israel) (ヘブライ語 yisrā'ēl は、神が支配する、神と競う、などの意)[一] 「旧約聖書」において、ヤコブの子一二人に始まる一二部族からなる民族名。北西セム系の半遊牧民で、パレスチナからエジプトに移住。前一二世紀頃モーゼに導かれてカナンに至り、ダビデ、ソロモンのとき強大な王国として栄えた。ソロモンの死後、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂、イスラエル王国は前七二一年新アッシリアに、ユダ王国は前五八六年新バビロニアに滅ぼされた。アケメネス朝ペルシア時代に復興するが、のち、ローマ帝国の支配下にあって独立に失敗、徹底的に鎮圧されて分散し、以後流浪の民族となった。ユダヤ人。ヘブライ人。[二] 西アジアの地中海東岸にある共和国。一九四八年イギリスの旧委任統治領パレスチナの大部分を領域に、世界じゅうに分散(ディアスポラ)したユダヤ人の統一をめざしてイスラエル共和国として独立。首都はエルサレム。

イスラエルのパレスチナ「併合」発言、アラブ世界はなぜ怒らない:朝...

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パレスチナ自治政府の議長マフムード・アッバスは声明の中で、もしイスラエルがこの地を併合したら「(これまで)イスラエルと調印したすべての合意と、それに基づいた義務は終了することになる」と明言した。 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 世界大百科事典内のイスラエルの言及 【シオニズム】より …これと並んで,19世紀末以来すすめられてきたキブツによる集団入植が,独自の理念と文化を築き,シオニズム運動の重要な要因となった。

パレスチナ問題の経緯|パレスチナ子どものキャンペーン

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イスラエル国内では、パレスチナとの和平や交渉を望まない人が増え、排外的な政治がますます強まっています。 国際社会はこうした状況に有効な手が打てておらず、犠牲は増える一方です。 1948年イスラエル国家の成立により,シオニズムの目標は達成されたが,宗教原理に基づくこの国家の基本的性格をめぐる議論,国内でのヨーロッパ系市民(アシュケナジム)の支配による事実上の人種差別の問題,パレスティナ問題,アラブ・ナショナリズムとの対立の問題,国際共産主義運動とシオニズムとの関係等,その直面する状況はなお複雑である。シオニズムは,ヨーロッパにおけるユダヤ人問題を,これを輸出することによって解決しようとしたが,かえってこの問題を全世界的規模にまで拡大したとみることができるであろう。… 【中東戦争】より …1948年5月のイスラエル国家成立を機に始まったアラブ諸国とイスラエル国家の間の一連の戦争。アラブ・イスラエル紛争ともいう。… 【ヤコブ】より …古代イスラエルの族長の一人(《創世記》25~36ほか)。〈ヤコブ物語〉の形成過程でイサクの子とされ,またイスラエル12部族の名祖(なおや)であるユダ,ヨセフ,ベニヤミンなど12人の息子と娘ディナの父。… 【ユダヤ人】より …[現代世界におけるユダヤ人] ヨーロッパが試みた〈ユダヤ人問題〉の暴力的解決の試みと問題のヨーロッパ以外への輸出によって,ヨーロッパにおけるユダヤ人人口は激減した。代わって,現在ではイスラエルとならんでアメリカ合衆国が,600万以上と推定される〈ユダヤ人〉を擁して一大中心となっている。彼らのうちの大きな部分を占める,東ヨーロッパ出身の人びとのなかには〈東方ユダヤ人〉の宗教文化,イディッシュ語文化を継承,発展させていこうとする努力があり,独自の思想的・文化的寄与を果たしている。… ※「イスラエル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

パレスチナ問題とは|パレスチナ子どものキャンペーン

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そもそも「パレスチナ難民」とは? 1948年のイスラエル建国に伴い、70万人以上のパレスチナ人が故郷と家を失って、ヨルダン川西岸地区、ガザや、ヨルダン、レバノンなど周辺諸国に逃れました。 成田空港とイスラエルが来年3月、直行便で結ばれます。数々の聖地や、悠久の歴史を今に伝える遺跡、そして日本では見られないスケールの自然と見どころはいっぱい。日本ではあまり知られていないイスラエルの魅力と、おそらくもっと知られていない検問所の向こう側、パレスチナについてもご紹介します。 直行便就航で一気に身近に! イスラエルはアラビア半島とアフリカ大陸の付け根に位置する、地中海に面した国です。 建国されてからまだ71年と比較的若い国ですが、その土地の歴史は3000年以上前にさかのぼります。面積は日本の四国とほぼ同じです。 これまで日本とイスラエルとの間に直行便の定期路線はなく、イスタンブールやモスクワなどで乗り継いで、少なくとも16時間はかかっていました。直行便が就航すれば、テルアビブまでの移動時間は12時間に短縮されます。 厳しいセキュリティーチェック 一方で、重要な注意点があります。行き帰りの空港へのチェックインは、フライトのおよそ2時間前までには済ませる必要があるというのです。チェックインの受付はフライトの4時間前から始まるということです。せっかくフライト時間が短くなったのに。 ベングリオン空港 こうした措置がとられるのは厳しいセキュリティーチェックを行うためです。搭乗ゲートでも独自の保安システムを導入するとのことでした。担当者は「逆に言うと安全な航空会社ということです。最初は面倒に感じるかもしれませんが慣れてもらえると思います」と胸を張ります。 エルサレムのトラム 警備に余念がないのはイスラエルのお国柄です。駅や商業施設に入るときにも持ち物検査があり、銃を携行した警備員から「武器は持っていますか」と質問されます。ぎょっとしますが、笑顔で対応するのが無難です。 空港に到着 成田を発って、到着するのはイスラエルの玄関口、ベングリオン国際空港です。ベングリオンは地名ではなく、イスラエルの初代首相の名前にちなんでつけられています。 ベングリオン空港 イスラエルの空港というと、入国手続きの際、パスポートにスタンプを押されるとほかのアラブ諸国などに行けなくなるので、スタンプを押さないように係官にお願いしなければいけない、という情報が今でも流布しています。 しかし実際はと言うと、今はスタンプが押されることは原則、ありません。代わりに入国の日時などが記された名刺ほどの紙を渡されるので、出国するまでなくさないようにしましょう。 イスラエルの治安は? 外務省はイスラエルのほとんどの地域に、4段階の危険情報のうち最も危険度の低い「十分注意」を出しています。パレスチナ暫定自治区のガザ地区の周辺や、北部のレバノンとの国境地帯は例外で、渡航中止勧告が出ています。訪れる際は外務省の出す情報や、最新のニュースなどで情報収集をしてください。 地中海のシティリゾート・テルアビブ それでは、イスラエルのおすすめ観光スポットを見ていきましょう。 まずはアメリカ西海岸を想起させるビーチに沿って高層ビルが立ち並ぶテルアビブ。空港からは電車やタクシーなどで30分の距離です。 テルアビブのビーチ イスラエルを初めて訪れる人たちを、この町はいい意味で裏切ります。バウハウス様式の建物が建ち並ぶ世界遺産の街区「テルアビブの白い都市」や、コンテンポラリーダンスの発信地であるスザンヌ・デラル・センターなど、刺激的な見どころが盛りだくさん。 スザンヌ・デラル・センター 「眠らない街」とも呼ばれ、中心部のクラブにはヨーロッパからも有名DJがやってきます。イスラエルという国にあって、テルアビブは宗教色の薄い、世俗的な人たちの象徴のような町なのです。 イエス・キリストの足跡をたどる イエス・キリストが伝道活動を始めるまでのおよそ30年間を過ごしたとされる街、イスラエル北部のナザレ。 ナザレ 町の中心には「受胎告知教会」があります。聖母マリアがイエスを身ごもったことを知らされたとされる場所に建つ教会です。現在のナザレはイスラエルに住むアラブ人の中心都市で、人口のおよそ7割がイスラム教徒、3割がキリスト教徒です。 ガリラヤ地方の教会 また、イスラエル北部のガリラヤ湖周辺にもキリストにゆかりのあるさまざまな教会があり、多くの巡礼者がバスツアーなどで訪れています。 マサダ要塞と死海 紀元70年にローマ軍に追い詰められたユダヤ民族およそ1000人が3年にわたって立てこもったとされるのがマサダ要塞です。 マサダ要塞 陥落した際には中にいた7人の女性と子どもを残して全員が自決したと伝えられていて、ここからユダヤ人のディアスポラ(離散)の歴史が始まったとされています。 死海 このマサダのふもとに広がるのが、世界一標高の低い場所にある湖「死海」です。いわゆる「塩湖」で、その塩分濃度は30パーセント。中に入って体を預けるとぷかぷかと浮かびますが、水が目に入ったり、体に傷があったりすると激しい痛みに襲われます。 3つの宗教の聖地 エルサレム さて、直行便でこの地にたどり着いたなら、必ず訪れるであろう場所がエルサレム。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地です。 嘆きの壁 エルサレム旧市街には3つの宗教の聖地が集中しています。ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」では大勢のユダヤ教徒が壁に手をあて、失われたかつての神殿に思いをはせます。 聖墳墓教会 キリスト教徒はイエス・キリストがかつて十字架を背負って歩いた道とされる「ヴィア・ドロローサ」を歩き、「聖墳墓教会」ではキリストの遺体に香油を塗ったとされる石の前に跪き、頬を寄せます。 岩のドーム さらにイスラム教の聖地「アルアクサモスク」や「岩のドーム」では毎週金曜に、大勢のイスラム教徒が集団礼拝を行います。 それぞれの聖地に向かう異なる信仰の人々が、雑然とした旧市街の細い路地ですれ違う姿は、まさにエルサレム独特の風景です。 エルサレム旧市街 エルサレムは日本のイスラエル大使館が2014年に制作し、YouTubeで公開した観光PR動画でも、当然のようにイスラエルの観光地として「岩のドーム」など旧市街の様子が紹介されています。 しかし、それはイスラエル側の見方に過ぎません。国際社会のほとんどは、エルサレムについてはイスラエルとパレスチナが話しあって最終的な位置づけを決めるものだとしています。エルサレムをイスラエルの観光地として紹介するパンフレットがあるならば、それは結果としてイスラエルの「プロパガンダ」に手を貸してしまっているのです。 岩のドームでおしゃべりするパレスチナ人 厳密に言えば、エルサレム旧市街、つまり3つの宗教の聖地はいずれもイスラエルの占領地=アラブ側と見なされています。パレスチナの観光資料ではエルサレムはパレスチナの観光地として登場します。 パレスチナへ 検問所を通る際の手続きは エルサレムまで来たならば、イエス・キリストが生まれた場所とされるベツレヘムは隣町。目と鼻の先です。 ただし、ベツレヘムはパレスチナ暫定自治区。イスラエル側が設けた検問所を通過する必要があり、訪れることを心理的にためらう人もいるかもしれません。 ベツレヘムの検問所 検問所を通過する際にはパスポートと入国した際の紙を持っていれば問題ありません。例によって「武器はもっていますか」とか「何の用事があるのですか」とか尋ねられますが、笑顔で「観光です」と答えるのが無難です。 検問所ではスタンプを押されるなどの手続きはありません。兵士とひと言、ふた言会話を交わせば通過できるケースがほとんどです。 パレスチナの治安は 外務省はヨルダン川西岸のうち主要都市であるラマラ、ベツレヘム、エリコについて4段階の危険情報のうち最も危険度の低い「十分注意」を出しています。その他の地域はレベル2の「不要不急の渡航はやめてください」となっています。飛び地となっているパレスチナ暫定自治区のガザ地区には現在、観光目的で入ることはできません。 キリストはここで生まれた?ベツレヘム ベツレヘム中心部のメンジャー広場に立つ「聖誕教会」は世界中のキリスト教徒にとって最も重要な教会の1つです。 聖誕教会 ヨーロッパ各地の教会に見られるような華やかさはなく、幾度となく異教徒からの攻撃を受けてきたことから、その外観は砦のようでもあります。中に入ると教会はとても簡素な作りですが、ここ数年で内部の修復作業が進み、壁には見事なモザイク画をみることができます。 キリストが生まれたとされる洞穴 キリストが生まれたとされる洞穴は教会の地下にあり、訪れた人たちはその洞穴の中に触れて祈りを捧げます。 世界一眺めの悪いホテル ベツレヘムの最新の観光スポットと言えば、覆面アーティストのバンクシーが手がけたホテルです。 バンクシーが手がけたホテル イスラエルが建設した「分離壁」と呼ばれる高いコンクリートの壁の横に建ち、“世界一眺めの悪いホテル”という触れ込みです。ホテルのなかにはバンクシーが手がけた数々の風刺作品が展示されています。 バンクシーの作品 ベツレヘム周辺にはバンクシーの有名な作品がいくつか残されていて、こうした作品とイスラエルの占領について学ぶツアーも開催され、観光客の人気を集めています。 マルサバ修道院 ベツレヘムから東に15キロほどの荒涼とした岩砂漠のなかに突如現れる「マルサバ修道院」。切り立った崖に建設された修道院の姿は荘厳で、訪れた人は息を飲むことでしょう。 マルサバ修道院 修道院では今も修道士たちが女人禁制で生活しています。不便な場所にあることから現地に住む人でも訪れたことがない人が多く、まさに“秘境”です。 アラファト廟 パレスチナの行政の中心、ラマラにはパレスチナ国家樹立を目指したカリスマ的な指導者、ヤセル・アラファト議長の廟があります。 アラファト廟 足跡をたどる資料を展示した資料館も隣接していて、パレスチナの人々がイスラエルの占領にどのように抵抗してきたのかを学ぶことができます。 占領ゆえの苦悩 パレスチナには豊富な観光資源がありますが、イスラエルの占領ゆえに思うような発展を遂げられていないのが現状です。イスラエルとの対立で政情が不安定になれば観光で訪れる人は自ずと減ります。また、多くの観光ツアーはイスラエル側で企画された日帰りのもので、パレスチナ側になかなかお金が落ちにくい仕組みになっているのも現実です。 ヨルダン川西岸の風景 7月に日本を訪れたパレスチナ暫定自治政府のマアーヤ観光・遺跡担当相は次のように話していました。 「私たちは占領下にあります。旅行者に見てほしいものは、移動にも困難を伴うような私たちの置かれた現実です。空港を持つことが許されず、“国境”を管理することもできませんが、皆さんが来てくれることでパレスチナが栄えることにつながります」 直行便が就航すれば、イスラエルを訪れる人は増えるでしょう。もし、そのときにパレスチナに足を伸ばそうかと悩むことがあれば、検問所を越えて、パレスチナにも足を運んでみてはどうでしょうか。ニュースで見聞きする「パレスチナ問題」も“百聞は一見に如かず”です。 ナブルス旧市街 そうそう、帰国の途につく際も早めに空港でチェックインすることを忘れずに。空港ではパレスチナのお土産を持っていたらイスラエルの係官から嫌がらせを受けた、という話もたびたび聞きます(政治的なメッセージが書かれたものや一目でパレスチナのものとわかるものをイスラエル側、まして空港で身につけることは、おすすめしません)。

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イスラエル建国70周年を迎えた2018年5月14日、ドナルド・トランプ政権下のアメリカは在イスラエル大使館をテルアビブからエルサレムに移転した。これを受け、パレスチナとイスラエルとの軍事衝突が一時的に拡大した。 パレスチナの歴史。紛争の舞台となり、16世紀にオスマン帝国に支配される 現在のパレスチナ一帯は、もともと「カナン」と呼ばれていました。聖書には「乳と蜜の流れる場所」と記されていて、神様がユダヤ教・キリスト教・イスラム教の始祖であるアブラハムとその子孫に与えると約束したことから「約束の地」とも呼ばれています。 紀元前10世紀頃、古代イスラエルの王だったダビデは、この地に栄えていたペリシテ人を倒し、エルサレムをイスラエル王国の首都としました。その後イスラエル王国は、ソロモン王の時代にエジプトと友好関係を結んで勢力を増していきます。しかし、やがて北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂し、弱体化したことで、アッシリアやバビロニア王国の侵略を受け、両国は滅亡しました。ユダ王国の遺民は捕虜として囚われ、「ユダヤ人」と呼ばれるようになります。その後パレスチナは、マケドニア王国やセレウコス朝シリアなどの支配を受けた後、ローマ帝国のユダヤ属州に。ユダヤ人たちは独立を目指して「ユダヤ戦争」を起こすものの鎮圧され、135年にシリア・パレスチナ属州と名称が変更されました。この地がパレスチナと呼ばれるようになったのは、これ以降だといわれています。ローマ帝国が衰えた後は、イスラム帝国の侵入を受け、11世紀以降はイスラム帝国と十字軍の戦いの場となりました。16世紀にはオスマン帝国に支配されます。パレスチナの中心都市エルサレムは、紀元前30世紀頃に建造された世界最古の都市のひとつで、ユダヤ教の「嘆きの壁」、キリスト教の「聖墳墓教会」、イスラム教の「岩のドーム」という3つの聖地が存在することから、世界の中心ともいわれています。3つの宗教の聖地が同じ都市に存在するという特異な状況は、パレスチナがヨーロッパ、アジア、アフリカの結節点にあたる交通の要衝にあること、それゆえに古代からさまざまな勢力の紛争の舞台となってきたことが理由として挙げられます。そして現代のパレスチナ問題の背景にも、このような複雑な歴史が影響を与えているのです。 パレスチナ問題の発端は?「第一次世界大戦」におけるイギリスの「三枚舌外交」とは パレスチナが北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂し、いずれも滅びた後、移民として各地に移住するユダヤ人が現れました。この動きを「ディアスポラ(民族離散)」といいます。しかしユダヤ人は、ヨーロッパでは「キリスト殺し」の罪を背負うものとみなされていて、迫害の対象となるのです。農業に必要な土地の所有、職人に必要なギルドへの加入、商売に必要な店舗の保有などが認められず、ユダヤ人ができるのは行商や芸能、金融などに限られました。そんななか彼らは教育に力を入れ、経済的に成功する者が出てくるのです。なかでも、フランクフルト出身のユダヤ人、マイアー・アムシェル・ロートシルトが基礎を築いたるロスチャイルド家は、18世紀後半から、銀行業、鉄道事業、アメリカ独立戦争、ナポレオン戦争などを通じて莫大な富を手にしました。この頃のヨーロッパは、1789年に起きた「フランス革命」でユダヤ人解放が実現する一方で、ルソーやヴォルテール、カント、モンテスキューら啓蒙主義者達を中心に反ユダヤ主義が盛んに唱えられているという状況です。そんななか、オーストリアのユダヤ人ナータン・ビルンバウムが「シオニズム運動」を考案します。これは、聖書にある「私はシオンに帰り、エルサレムの只中に住もう」という言葉に由来するもの。シオンはエルサレム市街にある丘の名前で、パレスチナに故郷を再建しようと働きかけ、この運動を支持する人は「シオニスト」と呼ばれました。1914年に「第一次世界大戦」が勃発すると、ロスチャイルド家の協力を得たいイギリスがこのシオニズム運動に目をつけます。イギリス外相のアーサー・バルフォアがライオネル・ウォルター・ロスチャイルド男爵に書簡を送り、ユダヤ人の「シオニズム運動」を支持することを表明。その見返りとして莫大な資金援助を得ることに成功します。これを「バルフォア宣言」といいます。一方でイギリスは、現地のアラブ人に対し、オスマン帝国への武装蜂起をに呼び掛けていました。1915年に「フサイン=マクマホン協定」を締結し、見返りとして、戦後の独立を認めるのです。さらに1916年には、連合国であるフランス、ロシアとの間で戦後の中東分割を協議し、パレスチナをイギリスとフランスの共同統治下に置くとする「サイクス・ピコ協定」を締結します。イギリスが矛盾する内容の3つの協定を結んだことは「三枚舌外交」と呼ばれ、批判の的になるとともに、パレスチナ問題の発端となりました。 現在のパレスチナ問題の原因は?「パレスチナ分割」と「中東戦争」 「第一次世界大戦」が終結した後、パレスチナはイギリスの委任統治領になりました。国際連盟で決議された「パレスチナ委任統治決議」の序文には、「ユダヤ人の民族郷土をパレスチナに確立することに責任を負うべきである」と記されています。これは「バルフォア宣言」の条文とほぼ同じものです。もともとシオニズム運動の目的は「ユダヤ人の故郷」を作ることであり、「国家」を作ることではありません。しかし「民族郷土」という概念自体が前例のないものであり、不明確であったことが、ユダヤ人とパレスチナ人の間に対立を生むことになるのです。ユダヤ人の帰還運動が進み、パレスチナへの移住者が増えてくると、ユダヤ人は自治の拡大を求めるようになりました。シオニストのなかにはユダヤ人の国家建設を求める過激派も現れ、この動きをパレスチナ人が危惧したことで、両者の関係は悪化していきます。そんななか、1936年にパレスチナ人による大規模な反乱が起きました。事態を憂慮したイギリスは調査団を派遣し、パレスチナを2つの国家に分割する「ピール分割案」を提案します。しかしこの提案は、ユダヤ人とパレスチナ人双方から拒絶されます。これ以降、イギリスの中東政策は人口の多いパレスチナ側を重視するようになり、ユダヤ人のパレスチナへの移住が制限されるようになりました。するとユダヤ人の過激派組織は反イギリステロを起こすとともに、アメリカとの間に協力関係を構築していきます。「第二次世界大戦」が終結すると、アメリカはイギリスに対し、移民制限を撤廃し、ホロコーストの生存者である10万人のユダヤ人難民をパレスチナに移住させることを求めました。しかしアメリカの要求を飲めば、今度はパレスチナ人から新たな反乱が生まれることは確実。板挟み状態に陥ったイギリスは、パレスチナの委任統治を断念し、パレスチナ問題を国際連合に提起します。1947年5月15日、国際連合は「国連パレスチナ特別委員会」を設立。賛成派と反対派双方による熾烈な票獲得のすえ、賛成33、反対13、棄権10、欠席1で分割決議が採択されました。この決議で、パレスチナの人口の3分の1に過ぎないユダヤ人に土地の56.5%が、人口の3分の2を占めるパレスチナ人には43.5%が与えられるものとされ、両者が首都と主張するエルサレムについては国際管理とすることが定められます。アラブ人は反発し、パレスチナは内戦状態となりました。1948年2月、アラブ連盟加盟国は、「ユダヤ人によるイスラエルの建国阻止」を決議します。しかし5月にイギリスによるパレスチナ委任統治が終了すると、ユダヤ人はイスラエルの独立を宣言。同時にアラブ連盟5ヶ国がパレスチナに侵攻し、「第一次中東戦争」が勃発しました。結果として勝利したのは、イスラエル。一部の地区を除くパレスチナの80%を得ることになりました。エルサレムは旧市街をヨルダン、新市街をイスラエルが占領し、イスラエルによる大量虐殺や脅迫から逃れるために約80万人のパレスチナ人が難民となるのです。この一連の出来事は、パレスチナ人を含むアラブ社会では「ナクバ(大災厄)」と呼ばれています。 パレスチナ問題の現在。パレスチナとイスラエルの関係は イスラエルとアラブ連盟による中東戦争は、第4次まで続きます。最終的にはアメリカの和平交渉によって1978年に「キャンプ・デービッド合意」が成立し、1979年3月に連盟の盟主であるエジプトとの間に平和条約が調印されたことで終結しました。その一方で、パレスチナ人は1964年に結成された「PLO(パレスチナ解放機構)」を中心に、1987年から「第一次インティファーダ」と呼ばれる抵抗運動を展開します。この運動でイスラエル側に160人、パレスチナ側に1162人の犠牲者が出たそうです。非武装のパレスチナ人に対して、イスラエル軍が実弾射撃をしたことで、国際世論からの批判が集まり、中東和平を求める声が高まります。この流れを受けて、1993年にはアメリカのビル・クリントン大統領による仲介で、「イスラエルを国家とし、PLOをパレスチナ自治政府として相互に承認する」ことを趣旨とする「オスロ合意」が締結。パレスチナ自治政府が発足しました。この合意は国際的にも高く評価され、イスラエルのラビン首相、シモン・ペレス外相、PLOのアラファト議長は1994年に「ノーベル平和賞」を受賞しています。しかし1995年にはラビン首相が暗殺されるなど、和平合意に反対する勢力も大きく、イスラム原理主義勢力によるテロも頻発。2006年にはイスラエルが急進的イスラム主義組織ヒズボラを攻撃するためにレバノンに侵攻したため、オスロ合意は事実上破棄されました。2008年から2009年にかけては、ガザ地区を統治する武装組織ハマスとイスラエル軍の間で「ガザ紛争」が勃発。イスラエルはガザを封鎖し、たびたび大規模な軍事攻撃を加えました。停戦後も物資の搬入に厳しい制限が課されていることから、復興は進んでいません。またイスラエルは、ヨルダン川西岸地区の60%ほどを占領下に置き、ユダヤ人による入植地を建設。2002年以降は「イスラエル側の安全確保」を目的とする高さ8mもの壁を作り、両者を分断しています。パレスチナ人の難民は、1948年のイスラエル建国から3世代目、4世代目を数え、その数は500万人を超えました。難民キャンプで無国籍状態で暮らしていて、社会的権利がない人が多くいるのです。ただ2010年から2012年にかけて発生した「アラブの春」以降、パレスチナの独立を認めようとする機運が国際社会で高まり、2011年にはユネスコへの加盟が承認。2012年には国際連合総会に参加する資格も格上げされました。しかし2016年のアメリカ大統領選挙で「親イスラエル」の姿勢を明確にするドナルド・トランプが当選すると、2017年12月には国際社会の反対の声を無視してエルサレムをイスラエルの首都として承認。全面的にイスラエルの主張に沿った和平案を提案して、パレスチナ人の反発を招いています。パレスチナ問題は泥沼化の様相を呈し、解決の糸口はまだ見えていないといえるでしょう。 現地取材をわかりやすくまとめたパレスチナ問題の入門書 ぼくの村は壁で囲まれた―パレスチナに生きる子どもたち 作者 高橋真樹(たかはし・まさき) 出版社 現代書館 出版日 2017年04月18日 作者の高橋真樹は、1997年に初めてガザを訪問して以来、たびたび現地を訪れ、取材を重ねてきました。本書ではパレスチナの子どもたちに焦点を当て、パレスチナ問題を考えていきます。イスラエルが建国し多くのパレスチナ難民が発生してから70年以上が経ち、新たな世代にとっては現状が日常になってしまっています。しかし、壁に囲まれ、攻撃の恐怖にさらされながら生活することは、決して普通のことではありません。多くの日本人にとって、パレスチナ問題はニュースで見聞きする遠い場所の話という認識で留まっているかもしれませんが、パレスチナを知ることは世界情勢を知ることにも繋がります。文章自体はやさしい言葉で綴られているので、パレスチナ問題を知る入門書として、ぜひ読んでみてください。